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    キッシュは彼女からやっと目をそらし、よろめきながら立ちあがった。 
   「ちが…お前は、ナルシじゃない」 「ナルシです。キッシュ、本当に私のこと忘れましたか?」   キッシュは歯を食いしばり、眼を閉じた。すると彼女の姿が一層鮮やかに、まるで目の前にいるように浮かんできた。
 ハープを弾いていた姿、月光を浴びながらぐっすり眠っていた姿、
 キッシュの傷を治療しながら涙を落とした姿…
   「キッシュ、もう愛していないんですか?」   彼女の声が耳についた。キッシュは何も言えず目を閉じ、たたずんでいた。今も生々しく聞こえてくる彼女の声と、次々と頭の中に蘇ってくる彼女の姿は、
 まるで大きな波のようにせまってきた。
 しっかりしないとそのまま巻き込まれ流されてしまいそうだった。
   ‘ナルシ…俺の運命の人…’    キッシュは揺らいでいた心を引き寄せながら目を開いた。彼女は目の前に立ち、彼を見つめていた。
 彼女の顔を見た途端、また心臓がちぎれるような痛みを感じたが、
 両手をぎゅっと握り崩れそうな足に力を入れた。
   「お前はナルシじゃない」   キッシュはしっかりと彼女の目に視線を合わせながら、はっきりとしゃべった。   「ナルシは…彼女は自分より俺の事を考えてくれた。少しでも俺がつらそうと思ったら自分のことのように泣いてくれた…
 だからお前はナルシじゃない。俺を痛ませるはずがない。
 お前はナルシじゃない!ナルシは死んだ!俺が…」
   一瞬息が止まるような痛みで言葉が出なかったが、深く息を吸ってから、より力を入れて叫ぶように話した。
   「お…俺が、俺がナルシを殺した!彼女の胸を突き破って殺した!俺が、俺が彼女を殺して海に沈めてやった!だからお前はナルシじゃない!」
     彼女はむせび泣いているのか、あざ笑っているのか分からないおかしい声をだし、いきなり空中に浮かび上がり、悲鳴をあげながらモンスターに化け始めた。
   「キッシュ!私を殺した上に今は拒否するつもり!地獄から帰ってきたのに!」   いつの間にか空は暗くなり、稲妻が落ちていた。周りの木々は炎に囲まれ激しく燃え上がっていた。熱気がキッシュの体を包み、マントに火がついた。
 キッシュは急いでマントを脱ぎ、投げ飛ばした。
 空中で化けている彼女の姿に恐怖を覚えた。腐った肌、鉤爪のように大きくなった爪、狂気で光る瞳、
 そして絶えず血が流れてくる胸の穴。
 モンスターのように化けた彼女は身もだえしながら悲鳴をあげた後、キッシュに攻撃してきた。
 獲物を狙う鷹のように恐ろしい勢いで降りてきた。
 キッシュは体をねじり攻撃を避け、短剣を握った。彼の代わりに攻撃を受けた木は粉々になった。
 彼女はまた空へ飛び上がり、金切り声で叫んだ。
   「許せない!」   彼女は再びキッシュに体をぶつけてきた。彼女の攻撃を避けながら短剣を振るった。今回もキッシュの代わりに後ろにあった木が彼女の攻撃を受け、
 燃えていた木は灰になって崩れた。
 火の手はどんどん勢いを増し、息をすることも苦しかった。激しい熱気に肺まで枯れたように息苦しい。逃げる場所はない。
 目の前に現れたものが何であれ、殺さないと自分が殺されるはずだ。モンスターになった彼女は飽きずにキッシュを攻撃し続ける。
 火の手を避けながら短剣を振りまわした。
 しかしモンスターは傷一つ受けず、次から次へと攻撃をしてくる。
 どんどん迫ってくる死への恐怖を抑えるためにより強く短剣を握りしめた。
 これ以上長く戦い続けるのは無理だと判断したキッシュは、全てを賭けた攻撃を強行した。 胸の穴から途切れなく流れていた血で、彼女の全身を赤く染めていた。陰惨な悲鳴を出しながら血の塊とも見えるモンスターが攻撃をしてくるのと同時に、
 キッシュも飛び掛った。
 モンスターの攻撃を避けながら、首に剣を刺した。しかしモンスターは何の痛みも感じていないかのように、肘を曲げキッシュの背中を切り裂いた。
 強い痛みを感じキッシュは倒れてしまい、背中から出た血が地面を染あげた。モンスターはゆっくりとキッシュに近づいてきた。
   ‘首に剣をさしたのに、傷すらない!どういうことだ!死んだ人を真似したモンスター?違う、俺の事とあの時を知っていた。まさかナルシの遺体が邪気で支配されモンスターになったのか?
 いや、そんなはずがない。ナルシの遺体は誰の手も届かない深い海の底に封印した。
 一体これはなんだ?’
   モンスターは倒れたキッシュの体の上に座りこみ、手で首を絞めながら枯れた声で話した。   「あなたの順番だよ、キッシュ」   キッシュは力を出してモンスターを振り払おうとしたが、モンスターはびくともしない。息がどんどん苦しくなり、周りの炎は猛烈な熱さで迫ってくる。
 なんとか抜けだそうとするキッシュの視界に、先ほど火がついて投げ出したマントが入ってきた。
 もう焼け焦げて灰になっているはずのマントには、焼けた痕跡がまったくなく
 元の状態のままだった。周りを見回したが木々もさっきと同じだった。
 見上げた空にある黒い雲も先ほどから動いてはいない。
   「そうか…これは幻だ…」   キッシュは眼を閉じ、今までの全部が幻覚だと自分自身に言い聞かせた。心が鎮まりで幻覚だと十分に確信ができてから閉じた目を開けた。
 全てが消えていた。
 恐ろしい勢いで木々を燃やしつくしていた炎も、背中から地面まで流れ続けていた血も、
 息苦しいほど首を絞めていたモンスターも…
 いつの間にか日が沈み空は黒くなっていた。   「ナルシじゃなくて…よかった…」   キッシュはつぶやきながら目を閉じ、眠りに落ちた。閉じた目元から小さな露が一滴落ちてきた。
 
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