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第二章 神を失った世界 第1話 08.06.04
 
大陸の南、エルフの大地の冬は短い。
海から吹いてくる風がもう冷たく感じられないほど、気温は上がっていた。
老人のエルフ達がマレアの祝福と呼ぶ天気、暖かい春の日だった。

トリアン・ファベルは小さな花束を胸に抱いて神殿の方に向かっていた。
黒いリボンで結ばれた花束は故人のためのもの。
毎月1度、トリアンはマレア神殿に花束やロウソクを捧げ、
亡くなった母親のために祈っていた。

それは30年以上も続けてきた習慣のようなことだった。
幼い頃には父親に抱かれて神殿に来ていたが、
それから何十年も経った今もそれを続いている。

トリアンは母親に対して微かな記憶しか持っていない。
寿命がヒューマンの2倍もあるのがエルフだが、
トリアンは母親の死をほとんど覚えていなかった。
その時のトリアンは赤ん坊だったのだ。

35年前のロハン暦258年、建国直後からエルフの首都だったレゲンを
モンスターに奪われる。
建築家だった父親はその当時エルフの第2の都市ヴェーナで働いていた。
休みを取ったという父親からの連絡で、母親は2人の子供と共に喜んでいただろう。
しかしそんな平和な日々は何の予告も無く壊れてしまった。

いつの間にかレゲンを包囲したモンスターの群れは夜を狙ってレゲンを襲撃し、
大勢のエルフが虐殺された。
トリアンの母親は他のエルフと共に第2の都市ヴェーナへ逃げた。
やっと一人で歩き始めた息子の手を握り、まだ赤ん坊のトリアンを抱いたまま。
マレアの神殿で働いていた見習い司祭のゼニスの手に抱かれてトリアンが
ヴェーナに到着し、父親に無事会えたのは奇跡に近いことだった。

ゼニスの話しによると、背中を斧で刺された姿で死んでいた母親に抱かれていた
トリアンは泣いていて、彼女の兄は行方不明だったそうだ。
微かな記憶の中の母親と、顔も覚えていない兄を犠牲にしてトリアンは今も生きている。
 
「全ては父なるオンや、マレアの加護の中で…ということか」
 
神殿で基礎教育を受け始めた時から習った警句を呟きながらトリアンは眉をしかめた。
何ヶ月前にあったことを急に思い出したのだ。

最初の疑いを確信に変えた出来事、大神官リマ・ドルシルの頼みでキッシュという
異種族の人とヒューマンの領土を訪問したこと。
その旅でトリアンが感じたのは全ての父なる主神オンは既に消滅し、
各種族の5人の下位神は、この地から全ての生き物を抹殺させようという恐ろしい事実だった。

報告を受けたリマ・ドルシルは最後の希望さえ失った人のような表情に変わった。
それから彼女は1度も笑顔を見せなかった。
確か、神官としても預言者としてもリマにも認められない真実だったのだろう。
いろいろ思い出しているうちに、いつの間にかトリアンは神殿に着いていた。
トリアンの記憶の中のリマの表情と同じ表情をしたリマ・ドルシルの暗い顔が目に入った。
 
「お久しぶりです、大神官」

「お久しぶりですね、トリアン」
 
大神官は軽く会釈をしてトリアンの挨拶に応えた。
彼女は神殿の祭壇の方を眺めた。
祭壇の上には黒のリボンで結ばれた何輪かの花が置いてあった。
トリアンが持ってきた花束より素朴なものだった。
 
「なんか、そのことを思い出して…」

トリアンの視線も祭壇の上にとどまっていることに気付き、リマ・ドルシルは
言い訳のようなことを言った。
トリアンはうつむいてしまった。

トリアンがデカン族のキッシュと共にデル・ラゴスに行ったように、
同じ任務を遂行していたエルフが2人いた。
リマ・ドルシルの頼みで1人はハーフリングの国リマへ、
もう一人はダークエルフの国イグニスに派遣された。

彼らもトリアン同様、ロハン大陸の一部が占領される現場を目撃したのだ。
リマに派遣されていたエルフは無事戻ってきたが、
イグニスに派遣されたエルフはモンスターに襲われ、大怪我をしたまま戻ってきた。
そして何日か過ぎて息を引き取った。
リマ・ドルシルが用意した花束がその人のためだった。

トリアンは花束を祭壇の上に置いて母親のための祈りをあげた。
そして任務のために命を失ったエルフのための短い祈りも加えた。
彼女の祈りが終わり、立ち上がると、祭壇を眺めているリマ・ドルシルの疲れた表情が見えた。
リマがゆっくりこう言った。
 
「習慣って恐ろしいものですね。もうあなたも私も知っているのに。
私達の祈りを聞いてくれる方はもう誰もいないということを…」

同じことを考えていたトリアンも頷いた。
リマ・ドルシルは3人のエルフを派遣して調査したロハン大陸の現況を
エルフの女王シルラ・マヨル・レゲノンに報告した。
秘密裏に大神官の報告をきいた女王はしばらく沈黙し、
すぐこの全ての事実を秘密にすることを命じた。

リマ・ドルシルは女王の命令の理由が分かるような気がした。
エルフの国ヴィア・マレアは女神への愛や尊敬を基本に建てられた国。
神への信頼が壊れたらこの国は混乱に落ちる。
東のダークエルフ、北のジャイアントが不審に動いているこの時期に、
国内に不安の種を撒くのは避けるのが正しい。

しかしいつまで隠せるのだろう。
すでに、神がこの大陸を捨てたという噂は暗々裏に広がっていた。
どこかの地域では熱狂的な信徒が神の意志に従い、
自ら人々を虐殺しているという話しも聞かれた。
この大陸に血の嵐に巻き込まれるのはもう時間の問題だ。

「大神官、私はこれで失礼します。」

いきなり聞こえた声でリマ・ドルシルの意識は現実に戻った。
トリアンが会釈し、リマは軽くうなずいた。
トリアンは神殿の門を出て外へ出て行った。
その後ろ姿を眺めながらエルフの大神官は小さな声で呟いた。
 
「さようなら……まだ帰るところがあるうちに帰りなさい。」
第2話もお楽しみに!
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